台湾での日本語は、日本統治時代末期には…
台湾での日本語は、日本統治時代末期には義務教育とされて、初等教育の就学率は70%を超えた。だが、第2次大戦後、国民党政権下では公の場での日本語が禁止され、暗黒時代が十数年続いた。
私立学校に日本語学科ができるのは1963年。87年に戒厳令が解除され、88年李登輝総統が就任すると外国語教育が推進され、翌年、国立大学に日本語学科が設置される。以後、日本語学科開設は全土に及んでいく。
淡江大学教授の曾秋桂女史によると、台湾にはスシ、ミソシル、テンプラ、セビロ、ガイトウなど日本語がたくさん残っている。「戒厳令解除とともに村上春樹の作品が翻訳なしで入ってきて、ベストセラーになった」という。
曾女史はまた台湾社会の特徴として、多言語、多文化、多民族を指摘する。植民地としての長い歴史があったからだ。大航海時代のオランダ支配、鄭成功政権、清朝、日本、中華民国と。
80年台北市に生まれ、3歳の時に日本に引っ越してきた作家、温又柔(おんゆうじゅう)さんは『台湾生まれ 日本語育ち』で今年6月、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。新刊の小説集『来福の家』でも日本語、中国語、台湾語が入り混じる生活ぶりを描いている。
両親は日本語が禁じられていた世代で、祖父母らの方が達者。その言語生活について母親は「おうちでは、適当適当!」と言う。その多言語の混在感が面白い世界をつくっている作品集だ。