「織部」とは「織部焼」の略称だ。古田織部…


 「織部」とは「織部焼」の略称だ。古田織部(1543~1615)のスタイルを伝える陶芸作品をいう。鮮烈な緑の色彩と斬新な意匠が特色で、今も人気が高い。が、織部の死については今も謎に包まれている。師匠の千利休の死(1591年)も不明な点は多いが、それ以上に謎めいている。

 大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した1カ月後、徳川家康に切腹を命じられた。理由は不明だ。1万石の武将だった織部が、全く弁明することなく切腹したことも、真相を見えにくくしている。

 先月刊行された諏訪勝則著『古田織部』(中公新書)は、利休や豊臣秀次に連なる織部が、大坂の陣に勝利した徳川政権にとって排除されるべき存在となった、という説を提示している。

 それにしても、排除するには相応の理由が必要だ。豊臣秀頼の側近として大坂城にあった息子九八郎と連絡を取っていたとか、夏の陣の直前、織部の家臣が家康滞在中の京都に放火する計画があった、などの説もある(桑田忠親著『古田織部の茶道』講談社学術文庫)。

 が、いずれも不確実な話だ。利休以後天下第一の茶人と言われ、2代将軍徳川秀忠の茶の指南役でもあった織部の死の真相は、依然として不明だ。

 豊臣秀吉から蟄居を命じられた利休を、織部は細川忠興と共に見送った。秀吉の当時の心理状態からすれば、処罰の可能性もあった。豪胆という他なく、切腹の際の潔さにも通じるところがある。