承久3(1221)年5月15日、後鳥羽上皇は…


 承久3(1221)年5月15日、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の実力者北条義時追討の命令を下した。ちょうど800年前のこと。承久の乱の勃発だ。

 旧来の見方は、上皇の本心は幕府打倒だったというものだ。無論この時代に「鎌倉幕府」という用語があったはずはない。だから「義時追討は事実上の鎌倉幕府打倒」だと考えるのが旧来説なのだが、近年では言葉通り義時打倒が目的との見方が多い。

 だが、幕府や義時は、あえて倒幕を狙ったものと受け止めた。幕府一体となって朝廷に反撃するためだ。万事に精力的だった後鳥羽上皇の意図は、幕府内反義時派による義時排除だったのだろうが、歴史は義時にとって有利に働いた。

 3代将軍源実朝は暗殺されていたので、当時は通称尼将軍の北条政子が、実弟の義時と共に幕府の実権を握っていた。有名な政子の演説は、御家人らに向かって、亡夫頼朝の恩を強調するものだったが、これが奏功して京都進撃論が決まった。

 後鳥羽上皇の反義時路線は否定されてしまった。戦闘もわずか2カ月後、朝廷方の惨敗で終了し、上皇は隠岐島(島根県)に流された。

 乱を起こした朝廷方の敗北は、朝廷と武家との力関係を変えた。建久3(1192)年以来、頼朝による武家政権が始まったが、朝廷方の敗北でその流れはより加速した。それでも義時は、後鳥羽上皇らを流罪に処した人物として、今でも人気があるとは言えない。これもまた自然な話だ。