新型コロナウイルス禍の中で一定期間過ごす…


 新型コロナウイルス禍の中で一定期間過ごすうちに気付いたことがある。どんなテーマであれ、人々の反応は多彩になるものだが、この世にはコロナを「気にする人」と「気にしない人」がいる。

 気にする人は状況を「非常時」と考える。一方、気にしない人は「日常の継続」と見なす。気にするタイプは「非常時なのだから、習慣となったものでも回避する」と思うし、気にしない側は「日常の習慣を継続する」と考える。無論、一定の対策は取った上でのことだ。

 半面、タイプはタイプでも「気にする(しない)人一般」はこの世には存在しないようだ。人には気にする(しない)ポイントがあって、ポイントはそれぞれ違う。

 あるポイントについては関心が深いが、別のポイントには無関心というケースも多い。食べ物であれテレビ番組であれ、好悪はどうしても存在する。

 織田信長は未来を見通す力は天才的で、その方向へであれば気にせずに動くことができた。それがうまく働いて新しい時代を開いた。半面、自分への裏切りや敵対に関しては被害妄想的なほどにも気にしたが、それでも明智光秀の反逆に対してだけはこうした警戒心が全く働かなかった。それが命取りになった。

 個性の違いばかりはどうにもこうにも動かない。何が起ころうとも、個性そのものが変わることはめったにない。人がこのような存在であることは、コロナ禍においても変わりはないようだ。