四十数年前、気流子の大学時代、ある文学者…


 四十数年前、気流子の大学時代、ある文学者の追悼式に出席したことがある。遺影の主は森有正だった。森は初代文相の森有礼(ありのり)の孫で、パリに在住して『遥かなノートル・ダム』などの緻密で哲学的なエッセーを記したことで知られている。

 場所は、国際基督教大学。パイプオルガンのバッハの曲が流れ、自分の居場所ではない所に来たような場違い感があったことを覚えている。

 文学者、哲学者でもあった森は、日本からパリに留学してそのままそこに居着いた。森の文章には不思議な魅力を感じていたが、追悼式に出るほどになったのは、友人の熱意に引きずられたからだ。

 多くの著名人が来ていたようだが、記憶にあるのは、文芸評論家の中村光夫である。ぼさぼさの髪の中村が茫然(ぼうぜん)として棒のように歩む姿が印象的だった。中村が参加したのは、晩年にキリスト教の洗礼を受けたことからすると、そのつながりの可能性がある。

 「風俗小説論」論争などで印象が深かった中村には、高齢の文学者を「年は取りたくないものです」と老害として切り捨てた捨てゼリフがある。その中村自身、後に「文学は老年の事業」といった言葉を残しているのは皮肉な話。

 中村は、昭和63年のきょう亡くなっている。芥川賞選考委員を長年務めたが、文芸評論家としては最後の選考委員で、以降は作家だけになった。「明治は遠くなりにけり」ではないが、昭和もまた遠くなったものである。