「時間という公平な批評家」(1978年)。…
「時間という公平な批評家」(1978年)。文芸批評家の江藤淳が、長らく担当してきた文芸時評の最終回に記した言葉だ。それから40年以上が経(た)つが、この言葉は今でも心に残る。
文芸時評家として、これまでいろいろ勝手なことを書いてきたが、今後は時間の推移に委ねたい。残るべきものは残るだろうし、消えていくものは消えるだろう。褒めた作品が文学史に残らないかもしれないし、けなした作品が残ることもあるだろう。全ては「公平な批評家」である時間が決めるということを信じる他ない、との思いが伝わる。
「時間」は「歴史」と言い換えてもいい。「歴史が決める」という事実は動かない。例えば柿本人麻呂。正確な没年は不明だが、1300年以上前であることは確かだ。人麻呂は没後1000年以上経ってもなお人々の記憶から消えていない。
1000年はともかく、100年間記憶されることもおぼつかない場合がある。流行作家について「死んだ途端忘れられる」と言われる例は古来多い。そんなことは書店の棚を見れば一目瞭然だ。
プラスもマイナスも時間や歴史が決める。作家や作品のそれまで知られていなかった側面が明らかになったことで再評価されることもある。
歴史は人間の動向によって決まるものだが、100年後の評価を予想することは当たり外れが大き過ぎる。文学史だけではない。あらゆる「今」が、時間による評価にさらされているようだ。