「安全神話」の二面性


 東日本大震災によって、日本の原発の安全神話は崩壊した。ここでいう安全神話とは、原発が「絶対に安全」とか「百パーセント安全」とかいう主張のことだ。

 なぜこれが「神話」となるのか。そもそも神話とは、侵し難い絶対的なものという半面、科学的な根拠を持たず理性で説明がつかないものという二面的な意味を持つ。原発の安全性についていえば、原子炉の製作技術や素材、その防災システムを向上させ、それを管理する人材の教育を強化すれば安全性を極大まで高めることはできるが、人間のミスや、防災システムの想定を超えた事態に直面すれば、当然、安全性は担保されなくなってしまう。だから、世界最高水準の安全性ぐらいまでは科学的に立証できても、「絶対に安全」「百パーセント安全」を立証・担保することは最初から不可能だ。そこまで踏み込むと「神話」になるのだ。

 原発の安全性を議論する時は本来、前提としてこの程度の共通認識は持つべきだ。ところが、日本では、原発のわずかな不備や小さな事故でも大きく喧伝(けんでん)して、原発自体をなくそうとする勢力が政界や学界、マスコミに大きな力を持ち、安全性のリスクを削減するための健全な議論を妨げてきた。

 事情は「安全神話」崩壊後も変わらない。反原発の活動家は、「原発に百パーセント安全はない。我々はどうすればいいのか。答えは簡単。原発をなくせばいい」という極論で「原発ゼロ」を叫んでいる。

 一方、法律家は、原子炉稼働の新規制基準は「(これに)適合すれば深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもないといえるような厳格な内容」であるべきだが、それに合致していない新基準では「安全性は確保されない」と主張して、原発の再稼働を停止させようとしている。どちらも、自ら「絶対に安全」という基準を持ち出し、それができないなら原発止めろという主張だ。いまだに…。(武)