「記録と言うとごく簡単に考える人があるが…
「記録と言うとごく簡単に考える人があるが、私は、記録は実におそろしいと思う」と作家武田泰淳は『司馬遷』(昭和18年)の冒頭に近い部分に記した。要約すれば「記録はおそろしい」。
メモのような短文であっても、歴史記述になる。後世に残すために記録したわけではないとしても、歴史記述だ。人間のことだから間違えることはある。それでも、文字として残されたものは歴史の記述だ。
早い話が、司馬遷の『史記』が秦の始皇帝の評価を決める。歴史学者や歴史文学者が織田信長の評価を決める。最近の研究成果では、信長はこれまで考えられてきたほど革新的だったわけではなく、案外秩序派で保守的だったとの評価が優勢だ。
「記録はおそろしい」とは「記録は権力」という意味でもある。「××は……だった」という歴史評価は、評価される側にとっては権力を行使されることだ。貶(おとし)められることもあるだろうし、逆に評価が高くなる場合もある。
よく「権力を監視する」などと言われることがある。反体制的なメディアに関わる人々の口から言われることが多い。だが「監視は権力」という側面も否定できない。
権力がなければ監視することすらできない。「自身も権力」との自覚がないまま、権力への監視を言い立てたところで、説得力は生まれない。監視は自身にも向けられなければならない。「記録はおそろしい」という言葉は、いろいろの場面で思い起こされる必要がありそうだ。