光州事件の真実 「民主化運動」だけとは言えず
武器返却・爆弾解体で惨劇回避
5月18日は1980年のいわゆる「光州事件」から40年である。前年79年の全斗煥(チョンドゥハン)将軍による「粛軍クーデター」と金大中(キムデジュン)氏ら逮捕に抗議する学生・市民が軍の武器庫を破って武装し全羅南道(チョルラナムド)道庁に立てこもり、鎮圧に投入された戒厳軍と銃撃戦を繰り広げて多数の犠牲者を出した。
後の政権らはこの事件を“総括”して報告書をまとめたが、解釈の主体によって事件の性格も犠牲者の数もまちまちだ。40年が経過しながら、いまだに“真相”が全て明らかになっていない。それほど闇に伏され、葬られた事件だった。
日本でも40年を機に衛星テレビ等で同事件をモチーフにした映画が上映された。「タクシー運転手・約束は海を越えて」(2017年)だ。ドイツ人記者を乗せて光州に行き、市街戦に巻き込まれたタクシー運転手の「実話を基に描かれている」。戒厳軍の容赦ない鎮圧と、反抗する学生・市民たち、それを世界に伝えた特派員……。
今は亡き独記者の妻が訪韓し、文在寅(ムンジェイン)大統領と共にこのスペクタクル映画を鑑賞したという。文大統領は、「光州事件の真相は完全には解明されていない。これはわれわれが解決すべき課題であり、私はこの映画がその助けになると信じている」と述べ、学生・市民の側からの視点で描かれた映画を評価した。光州事件は「積弊」の最たるものということになる。
しかし、光州事件は見る角度によって大きく様相が違う。左派の「5・18民主化運動」という位置付けから、保守派の「北朝鮮・共産主義者にそそのかされた反政府武装蜂起」まで幅が広い。そのためか、事件に関わった人々に対する評価も正反対だ。
朝鮮日報社が出す総合月刊誌月刊朝鮮(5月号)に「もう一つの5・18、混沌(こんとん)の光州、社会主義革命を夢見た運動圏と国家主義者らの対決」の記事が載っている。この中で当時「軍の手先」と批判された人物が、実は「光州の惨劇を救った義人」であることに改めて光を当てた。
道庁を乗っ取った学生たちが最初にやったことは「学生収拾委員会」をつくって戒厳司令部と交渉し、「武器回収」と「拘束者の釈放」を実現することだった。事態を収めようとすれば当然の成り行きだ。
キリスト教指導者らが間に立ち、司令部との間で武器返却と拘束された学生たちの釈放が進められていった。
ところが学生の一部にこれに反対する強硬派がいた。彼らは運動圏学生(学生運動家)を道庁に呼び込み、武器を1カ所に集め戦闘力を強化することを主張した。組織も「民主闘争委員会」に改編され、まさに「道庁の中でクーデターが起きた」のだった。
闘争委の中心メンバーはもともと市内のYMCAを拠点に共産主義の勉強会を進めていた地下サークルの面々だ。そして民主闘争委とは別に「汎(はん)市民民主闘争委員会学生革命委員会」が組織される。行動綱領で「決戦の瞬間が来た」として、「武器(ダイナマイト、火炎瓶、手製爆弾等)を準備せよ、官公庁を燃やせ、特攻隊を組織し武器を奪取せよ」と学生・市民を煽(あお)っていく。こうして次第に彼らの性格が明らかになっていった。
そうした中でも道庁に集められていた爆発物の雷管を外し解体する作業が進められた。「武器を集めよ」という武闘派の収奪を防ぎながらの作業だった。この時、道庁内にあった爆薬の量は「8トントラック4台分」で光州市の中心部を吹き飛ばすに十分な量だったと同誌は書いている。危険と背中合わせで作業した学生たちこそ、光州を救った者たちだった。
ところが、武器返却や爆発物解体をした者らは「戒厳軍の手先」と見做(みな)されるようになる。この認識は現在も変わっていないが、40年経(た)って少し変化が出ていることを同誌は伝えている。強硬派の中心だった人物が同誌に語った。
「私は当時、武器返却に反対したが、どちらか一方の主張が絶対的に正しかったとは思わない。武器返却を主張した人々が戒厳司令部の手先でもなかったし、平凡な人々の場合、十分にそのような立場を取ることができる」と。
最後に同誌は「穏健派の行動もまた5・18(光州事件)の大切な資産」と結ぶ。「民主化運動」という位置付けだけでないことを知らせた好記事だ。
(編集委員 岩崎 哲)