皇后陛下、傘寿迎えらる
皇后さまの回答全文
皇后陛下の御回答全文は次の通り。
問1 傘寿を迎えた感想、80年の歳月を振り返ってのお気持ちをお聞かせください。
答 ものごころ付いてから、戦況が悪化する十歳頃までは、毎日をただただ日向で遊んでいたような記憶のみ強く、とりわけ兄や年上のいとこ達のあとについて行った夏の海辺のことや、その人達が雑木林で夢中になっていた昆虫採集を倦きることなく眺めていたことなど、よく思い出します。また一人でいた時も、ぼんやりと見ていた庭の棕梠(しゅろ)の木から急にとび立った玉虫の鮮やかな色に驚いたり、ある日洗濯場に迷い込んできたオオミズアオの美しさに息をのんだことなど、その頃私に強い印象を残したものは、何かしら自然界の生き物につながるものが多かったように思います。
その後に来た疎開先での日々は、それまでの閑(のど)かな暮らしからは想像も出来なかったものでしたが、この時期、都会から急に移って来た子どもたちを受け入れ、保護して下さった地方の先生方のご苦労もどんなに大きなものであったかと思います。
戦後の日本は、小学生の子どもにもさまざまな姿を見せ、少なからぬ感情の試練を受けました。終戦後もしばらく田舎にとどまり、六年生の三学期に東京に戻りましたが、疎開中と戦後の三年近くの間に五度の転校を経験し、その都度進度の違う教科についていくことがなかなか難しく、そうしたことから、私は何か自分が基礎になる学力を欠いているような不安をその後も長く持ち続けて来ました。ずっと後になり、もう結婚後のことでしたが、やはり戦時下に育たれたのでしょうか、一女性の「知らぬこと多し母となりても」という下の句のある歌を新聞で見、ああ私だけではなかったのだと少しほっとし、作者を親しい人に感じました。
皇室に上がってからは、昭和天皇と香淳皇后にお見守り頂く中、今上陛下にさまざまにお導き頂き今日までまいりました。長い昭和の時代を、多くの経験と共にお過ごしになられた昭和の両陛下からは、おそばに出ます度に多くの御教えを頂きました。那須の夕方提灯に灯を入れ、子どもたちと共に、当時まだ東宮殿下でいらした陛下にお伴して附属邸前の坂を降り、山百合の一杯咲く御用邸に伺った時のことを、この夏も同じ道を陛下と御一緒に歩き、懐かしみました。
いつまでも一緒にいられるように思っていた子どもたちも、一人ひとり配偶者を得、独立していきました。それぞれ個性の違う子どもたちで、どの子どもも本当に愛(いと)しく、大切に育てましたが、私の力の足りなかったところも多く、それでもそれぞれが、自分たちの努力でそれを補い、成長してくれたことは有難いことでした。子育てを含め、家庭を守る立場と、自分に課された務めを果たす立場を両立させていくために、これまで多くの職員の協力を得て来ています。社会の人々にも見守られ、支えられてまいりました。御手術後の陛下と、朝、葉山の町を歩いておりました時、うしろから来て気付かれたのでしょう、お勤めに出る途中らしい男性が少し先で車を止めて道を横切って来られ、「陛下よろしかったですね」と明るく云い、また車に走っていかれました。しみじみとした幸せを味わいました。
多くの人々の祈りの中で、昨年陛下がお健やかに傘寿をお迎えになり、うれしゅうございました。五十年以上にわたる御一緒の生活の中で、陛下は常に謙虚な方でいらっしゃり、また子どもたちや私を、時に厳しく、しかしどのような時にも寛容に導いて下さり、私が今日まで来られたのは、このお蔭であったと思います。
八十年前、私に生を与えてくれた両親は既に世を去り、私は母の生きた齢(とし)を越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に、同じ朝「陛下と殿下の御心に添って生きるように」と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います。
問2 天皇陛下と共に国内外で慰霊の旅を続けてこられました。戦争を知らない世代が増えている中で、来年戦後70年を迎えることについてのお気持ちをお聞かせください。
答 今年八月に欧州では第一次大戦開戦から百年の式典が行われました。第一次、第二次と二度の大戦を敵味方として戦った国々の首脳が同じ場所に集い、共に未来の平和構築への思いを分かち合っている姿には胸を打たれるものがありました。
私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います。
戦後の日々、私が常に戦争や平和につき考えていたとは申せませんが、戦中戦後の記憶は、消し去るには強く、たしか以前にもお話ししておりますが、私はその後、自分がある区切りの年齢に達する都度、戦時下をその同じ年齢で過ごした人々がどんなであったろうか、と思いを巡らすことがよくありました。
まだ若い東宮妃であった頃、当時の東宮大夫から、著者が私にも目を通して欲しいと送って来られたという一冊の本を見せられました。長くシベリアに抑留されていた人の歌集で、中でも、帰国への期待をつのらせる中、今年も早蕨(さわらび)が羊歯(しだ)になって春が過ぎていくという一首が特に悲しく、この時以来、抑留者や外地で終戦を迎えた開拓民のこと、その人たちの引き揚げ後も続いた苦労等に、心を向けるようになりました。
最近新聞で、自らもハバロフスクで抑留生活を送った人が、十余年を費やしてシベリア抑留中の死者の名前、死亡場所等、出来る限り正確な名簿を作り終えて亡くなった記事を読み、心を打たれました。戦争を経験した人や遺族それぞれの上に、長い戦後の日々があったことを改めて思います。
第二次大戦では、島々を含む日本本土でも百万に近い人が亡くなりました。又、信じられない数の民間の船が徴用され、六万に及ぶ民間人の船員が、軍人や軍属、物資を運ぶ途上で船を沈められ亡くなっていることを、昭和四十六年に観音崎で行われた慰霊祭で知り、その後陛下とご一緒に何度かその場所を訪ねました。戦後七○年の来年は、大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。
世界のいさかいの多くが、何らかの報復という形をとってくり返し行われて来た中で、わが国の遺族会が、一貫して平和で戦争のない世界を願って活動を続けて来たことを尊く思っています。遺族の人たちの、自らの辛い体験を通して生まれた悲願を成就させるためにも、今、平和の恩恵に与っている私たち皆が、絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています。
問3 音楽、絵画、詩などさまざまな芸術・文化に親しんでこられましたが、芸術・文化はどのような意味を持ち、どのようなお気持ちで触れてこられましたか。
答 芸術-質問にある音楽や絵画、詩等-が自分にとりどのような意味を持つか、これまであまり考えたことがありませんでした。「それに接したことにより、喜びや、驚きを与えられ、その後の自分の物の感じ方や考え方に、何らかの影響を与えられてきたもの」と申せるでしょうか。子どもの頃、両親が自分たちの暮らしの許す範囲で芸術に親しみ、それを楽しんでいる姿を見、私も少しずつ文学や芸術に触れたいという気持ちになったよう記憶いたします。戦後、どちらかの親につれられ、限られた回数でも行くことの出来た日比谷公会堂での音楽会、丸善の売り場で、手にとっては見入っていた美しい画集類、父の日当たりのよい書斎にあった本などが、私の芸術に対する関心のささやかな出発点になっていたかと思います。
戦後長いこと、私の家では家族旅行の機会がなく、大学在学中か卒業後かに初めて、両親と妹、弟と共に京都に旅をする機会に恵まれました。しかし残念なことに、私は結婚まで奈良を知る機会を持ちません。結婚後、長いことあこがれていた飛鳥、奈良の文化の跡を訪ねることが出来、古代歌謡や万葉の歌のふるさとに出会い、歌に「山」と詠まれている、むしろ丘のような三山に驚いたり、背後のお山そのものが御神体である大神(おおみわ)神社の深い静けさや、御神社に所縁(ゆかり)のある花鎮(はなしず)めの祭りに心引かれたりいたしました。学生時代に、思いがけず奈良国立文化財研究所長の小林剛氏から、創元選書の「日本彫刻」を贈って頂き、「弥勒菩薩」や「阿修羅」、「日光菩薩」等の像や、東大寺燈篭の装飾「楽天」等の写真を感動をもって見たことも、私がこの時代の文化に漠然とした親しみとあこがれを持った一因であったかもしれません。
建造物や絵画、彫刻のように目に見える文化がある一方、ふとした折にこれは文化だ、と思わされる現象のようなものにも興味をひかれます。昭和四十二年の初めての訪伯の折、それより約六○年前、ブラジルのサントス港に着いた日本移民の秩序ある行動と,その後に見えて来た勤勉、正直といった資質が、かの地の人々に、日本人の持つ文化の表れとし、驚きをもって受けとめられていたことを度々耳にしました。当時、遠く海を渡ったこれらの人々への敬意と感謝を覚えるとともに、異国からの移住者を受け入れ、直ちにその資質に着目し、これを評価する文化をすでに有していた大らかなブラジル国民に対しても、深い敬愛の念を抱いたことでした。
それぞれの国が持つ文化の特徴は、自ずとその国を旅する者に感じられるものではないでしょうか。これまで訪れた国々で、いずれも心はずむ文化との遭遇がありましたが、私は特に、ニエレレ大統領時代のタンザニアで、大統領は元より、ザンジバルやアルーシャで出会った何人かの人から「私たちはまだ貧しいが、国民の間に格差が生じるより、皆して少しずつ豊かになっていきたい」という言葉を聞いた時の、胸が熱くなるような感動を忘れません。少なからぬ数の国民が信念として持つ思いも、文化の一つの形ではないかと感じます。
東日本大震災の発生する何年も前から、釜石の中学校で津波に対する教育が継続して行われており、三年前、現実に津波がこの市を襲った時、校庭にいた中学生が即座に山に向かって走り、全校の生徒がこれに従い、自らの生命を守りました。将来一人でも多くの人を災害から守るために、胸の痛むことですが、日本はこれまでの災害の経験一つ一つに学び、しっかりとした防災の文化を築いていかなくてはならないと思います。
歓び事も多くありましたが、今年も又、集中豪雨や火山の噴火等、多くの痛ましい出来事がありました。犠牲者の冥福を祈り、遺族の方々の深い悲しみと、未だ、行方の分からぬ犠牲者の身内の方々の心労をお察しいたします。又この同じ山で、限りない困難に立ち向かい、救援や捜索に当たられた各県の関係者始め自衛隊、消防、警察、医療関係者、捜索の結果を待つ遺族に終始寄り添われた保健師の方々に、感謝をこめ敬意を表します。
(時事)