手段としての英語学習


 文部科学省が全国の国公立高校の3年生約7万人を対象に初めて行った英語力調査によると、「読む、聞く」の平均的学力は英検3級(中学卒業程度)相当で、「書く、話す」はさらに低く、「書く」に至っては0点が約3割もいた。平成25年6月の教育振興基本計画は5年間で、高校卒業生の半分が英語力の目標(英検準2級程度~2級程度以上)を達成することを成果指標に掲げているが、現実は極めて厳しい。

 とりわけ、アンケート調査で英語が嫌いと答えた生徒が58・4%もいる。「好きこそものの上手なれ」といわれるが、「英語嫌い」の学生を減らすところから手をつけないと、目標達成は夢のまた夢となるだろう。

 筆者も英語教材のCDやDVDのない時代に田舎の中高校に通ったので、ラジオで欧米の歌を聞くかそのレコードを買うぐらいしか英語に接する機会がなかった。それでも中学時代からNHKのラジオ英語講座を毎日欠かさず聞いて、(ヒアリングや発音を含め)英語が抜群にできる先輩がいたから、関心と努力さえ持続できれば、少々の環境的な問題は克服できることを知っている。

 日本の英語教育が文法や読解力偏重になったのは明治時代に遡(さかのぼ)る。富国強兵を実現するため西洋の科学技術を学ぶ必要から数学と英語(読解力)の教育に力点を置いたのだという。その伝統が戦後も延々と続いて、それはそれで十分に成果を上げてきた。しかし、既に日本の科学技術力は世界の最先端に達し、前人未踏の新境地を開拓しなければ生き残れない時代に入っている。従来の詰め込み型、暗記型の勉強法の限界は明らか。

 新しい発想を得るには、人と人とのコミュニケーションとそれを自分で咀嚼(そしゃく)する力が必要。コミュニケーションと思考の手段である言葉(英語)も、そんな方向で学べたら少しは面白くなるのではないか。(武)