靖国神社参拝と「祈る人」
安倍晋三首相の靖国神社参拝後、国内外のメディアは産経新聞など一部を除いて批判的な記事を掲載した。一方、首相の参拝直後実施された世論調査では国民の過半数が「首相の参拝」を支持している。「当然だ」「よく参拝した」から、米中韓からの批判に対しては「内政問題への干渉だ」といった意見が聞かれた。例えば、TBSの世論調査では約7割の国民が首相の靖国神社参拝を支持したという。
プリント・メディアやネット世界で靖国神社参拝に反対する論客は、靖国神社が明治政府の意図でつくられたもので純粋な宗教施設でないことから、靖国神社に祭られている「英霊」にも疑問を呈し、「首相の参拝は最終的には日本の国益を害する」と主張する。オバマ米政権が今回、安倍首相の参拝に「失望した」という外交上かなりきつい表現で批判したことを指摘し、「首相の参拝は日本を外交上孤立化させる」といった警告まで飛び出している。
安倍首相の靖国神社参拝を批判するメディアの論客、ネット上の知識人は日本の歴史、靖国神社の背景を通常の国民より精通している人々が少なくない。彼らは「首相の参拝は合理性に欠けた感情的行為」と糾弾する。その論理は一定の説得力はある。
にもかかわらず、多数の国民は「参拝は当然だ」と受け取っているのだ。その「差」はどこから来るのか。メディアの論客と普通の国民との間には知識、情報量で当然差はある。ただし、首相の参拝を批判する知識人も「犠牲となった兵士たちを慰霊する」ことには理解を示している。彼らが批判する点は「靖国神社に戦犯の軍人も祀られていること(戦犯合祀)」「靖国神社が政治的に利用されている」などに集中している。
大多数の国民は「犠牲者の霊を慰霊する」という参拝本来の目的を重視し、それ以外の靖国神社の不合理性、歴史には余り関心を注がない。一般の国民は「国のため犠牲となった人々を慰霊することは当然だ」といった理解で十分なのだ。彼らにとって、靖国神社参拝は政治的、外交的問題ではなく、あえて議論するテーマではないわけだ。「首相の靖国神社参拝」の是非を問う国民投票を実施したなら、ネットを含むメディア側の論客は現時点では敗北だろう。
安倍首相の靖国神社参拝は、国内外のメディアから批判される一方、国民は支持する、といった正反対の反応を生み出している。メディアと国民の総意が一致しないことはよくあるが、靖国神社参拝問題ほど両者間の鮮明な差は珍しい。
安倍首相は「今後、日本の立場を理解してもらうために説明していく」と述べている。首相には当然、説明責任はある。一つだけ、当方に理解できない点は「日本の首相が靖国神社を参拝することは日本の再軍備化につながる」といった批判だ。ちなみに、安倍首相は靖国神社の境内にある鎮霊社にも参拝している。鎮霊社は、靖国神社に合祀されていない内外の戦争犠牲者を広く慰霊するための社だ。
安倍首相は「日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を、新たにしてまいりました。同時に、二度と戦争の惨禍に苦しむことが無い時代をつくらなければならない。アジアの友人、世界の友人と共に、世界全体の平和の実現を考える国でありたいと、誓ってまいりました」(産経新聞電子版)という談話を発表している。日本政府はこの首相の談話を海外に向けても発信したらどうだろうか。
最後に、当方の考えを少し書きたい。
まず、「ハプスブルク家の“最後の別れ”」(2011年7月18日)というタイトルのコラムの一部を紹介する。
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約640年間、中欧を支配してきたハプスブルク王朝の“最後の皇帝”カール1世の息子オットー・フォン・ハプスブルク氏の葬儀が2011年7月16日、ウィーンのシュテファン大聖堂で行われた。
死者へのミサが終わると、長男カール・ハプスブルク氏ら家族が見守るなか、棺はグラーベン通り、コールマルクを経由して王宮へ。そして英雄広場を通過してリング通りに出、そこからハプスブルク家の墓所があるカプチーナー教会まで運ばれ、路上の市民に最後の別れを告げた。
ハプスブルク氏の棺がカプチーナー教会(Kapuziner)に入る前には儀式(ritual)がある(カプチーナー教会には、1633年から皇帝、皇妃などハプスブルク家関係者が葬られている)。
儀式は、カプチーナー教会に到着した棺の前で、家族の代表が教会の戸を3度叩く事から始まる。
カプチーナー教会修道僧「誰か」
家族代表「オットー・ハプスブルク、オーストリア・ハンガリー王国の皇太子であり、ハンガリー、ベーメン、ダルマチア、クロアチア、スロヴェニアの・・・」とハプスブルク氏の王国での称号を読み上げる。
教会「そのような人物を知らない」
家族代表、もう一度教会の戸を3度叩く。
教会「誰か」
家族代表「オットーハプスブルク博士は汎欧州同盟の会長であり、数多くの名誉教授の称号を受け、国家や教会から多くの勲章を得た……」
教会「そのような人物を知らない」
家族代表、再度、教会の戸を3度叩く。
教会「誰か」
家族代表「オットー、死人であり、罪人です」
教会「入りなさい」
教会の戸が開く。そして棺が教会内に入っていく。
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当方は「靖国神社参拝と『死者の権利』」(2013年7月26日)のコラムの中で、「誰も参拝を受ける死者の権利を奪うことはできない」と書いた。既に亡くなった人間の悲しみ、痛み、恨みを過小評価したり、ましてや批判できる権利を有している人はいない。「お前の死は犬死だ」と誹謗できるか。「お前は戦争犯罪に関与した」といって、その死者を審判できるか。
生きている人間が死者に対して唯一出来ることは、死者の前に頭を垂れて祈ることだろう。韓国の独立の為に犠牲となった人物の前にも、日本軍の1兵士として若き命を散らした学徒兵に対しても同じだ。そして、靖国神社が政治的な目的のために作られた場所だとしても、真心を込めて祈る人はそれらの世俗的な障害を問題としないだろう。逆に、神聖な祈祷室に入ったとしても、祈らない人はいるのだ。
(ウィーン在住)