テニスコートで運命の出会い 皇室の70年(中)


戦後70年

陛下の電話が心動かす

国民との距離縮めた御成婚

 1958年(昭和33年)11月、皇太子妃が日清製粉社長の長女、正田美智子さま(現皇后陛下)と決定。初めての一般家庭出身の皇太子妃誕生に、日本中が沸いた。揺れ動いた若き妃の心を動かしたのは、当時皇太子だった天皇陛下の電話での誠実な姿勢だった。
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皇太子殿下(現天皇陛下)と美智子殿下(現皇后陛下)は御成婚パレードで、沿道の人々の祝福を受け、笑顔を見せられた1959年(昭和34年)4月10日、東京都内

 ◇粘りのテニスに「すごいね」

 57年8月19日、長野県軽井沢町の軽井沢会テニスコートで開かれた「ABCDトーナメント」。皇太子殿下(今の陛下、以下同じ)の2学年下で、テニス仲間の織田和雄さん(79)はコートサイドで、皇太子殿下と早稲田大の男子学生、美智子さまと米国人少年のペアの対戦を見守っていた。

 皇太子殿下は、妹宮の清宮さま(現島津貴子さん)の勧めで出場。4回戦での対戦は全くの偶然だった。第1セットは皇太子殿下のペアが6―4で勝利したが、強い球が打ち込まれても丁寧に返球し、粘り強くチャンスを待つプレーに、第2セットは5―7、第3セットは1―6で完敗した。

 「あんなに正確に打ち返してくるんだから、かなわないよ。すごいね」。試合後、真っ白なタオルで汗を拭きながら、織田さんのそばに来た皇太子殿下は、感嘆の声を上げた。「試合に負けられたのに爽やかだったので、美智子さまに強い印象を持たれたのだなと思った」と振り返る。

 2カ月後の10月27日、皇太子殿下は東京都調布市のテニスコートに、テニス仲間を通じて美智子さまを招き、お二人は初めてダブルスを組んだ。皇太子殿下はこのとき、美智子さまをカメラで撮り、宮内庁職員の写真展に出品した。

 皇太子殿下は同年秋、「東京ローンテニスクラブ」に入会し、美智子さまも翌58年5月に入った。お二人をつなぐ糸は徐々に太くなっていった。

 ◇1カ月後、二人で祝杯

 58年8月、昭和天皇の許しを得て、小泉信三・東宮御教育常時参与(故人)は正田家に美智子さまとの結婚を申し入れた。正田家は固辞し、美智子さまは同9月3日、欧米旅行に出発。帰国したのは10月26日だった。

 「皇太子さまが東宮仮御所の書斎にいらっしゃるから、差し支えなかったらすぐお電話していただけませんか」。翌27日から、皇太子殿下の連絡を受けて正田家に電話し、美智子さまにお願いする織田さんの役目が始まった。それ以前もテニスへのお誘いなどを取り次いでいたが、御結婚を前提とした交換手の役目はこのときからだった。電話はほぼ毎日続いた。

 「度重なる長いお電話のお話の間、殿下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはありませんでした。どんなときにも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした」

 後に美智子さまの述懐を聞いた黒木従達・元東宮侍従長(故人)は「この皇太子としてのお心の定まりようこそが最後に妃殿下をお動かししたことはほぼ間違いない」と手記に書いている。

 織田さんは11月21日夜、東宮仮御所に招かれ、皇太子殿下と二人だけで祝杯を挙げた。23日には「一応片が付いたから。どうもありがとう」とお礼の電話があった。

 27日の皇室会議で婚約が決定。直後の記者会見で美智子さまは「とてもご誠実で、ご立派で」と述べ、流行語になった。皇太子殿下は婚約内定後、「語らひを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓」と詠んだ。

 ◇馬車列に歓喜の声

 59年4月10日の結婚パレード。馬車列が皇居を出発し、沿道にはお二人の姿を一目見ようと、53万人が詰め掛けた。織田さんは東宮仮御所近くでパレードを見て、喜びをかみしめた。

 当時大学生だった皇室ジャーナリストの松崎敏弥さん(76)は、母親に誘われ、皇居・半蔵門近くでパレードを見た。身動きできないほどの人であふれる中、お二人が乗った馬車が姿を現し、美智子さまがにこやかに手を振ると、「ミッチー、お幸せそう」「おめでとうございます」「万歳」と、群衆から歓喜の声が上がった。

 「美智子さまは本当にきれいだった。皇室はそれまで雲の上の存在だったが、お二人の結婚で国民との距離が大きく縮まった」。松崎さんは「ミッチーブーム」を懐かしく語った。

(時事)