水上集落「ガンビエ」と奴隷貿易港「ウィダ」/ベナン


 Bonjour cher frère et soeur !(親愛なる兄弟たちよ、こんにちわ!)

 西アフリカはベナン共和国から、教科書では学ぶことのできない「水上集落」と「奴隷貿易港」を紹介する。

 1000万人の人口と日本の約3分の1の国土を持つベナン共和国は1960年にフランスの植民地支配から独立し建国された。公用語はフランス語。

写真① 
 まずは「アフリカのヴェネツィア」と呼ばれるアフリカ最大の水上集落ガンビエを紹介しよう。

 16世紀から17世紀にかけて建設されたガンビエはベナン共和国の南にあるノコウエ湖の上に存在し、人口は4万5000人。船着場から10分ほど船を漕ぐと、そこには竹と茅葺の家や学校、警察署、ホテル、レストラン等の建物が水上に数多く浮かぶ“街”に着く。住民の移動手段は全て船で、一家に一艘……ではなく一人につき一艘だそうだ。

 どうして彼らは水上に住むようになったのか? そこには痛々しい過去があった。現地の人の説明を聞くまでは植民地時代の過酷な迫害から逃れるために水上へ移ったのではないかと考えていたが、実はそうではない。同じアフリカの部族間で奴隷として捕まえて海外諸国に送っていたのだ。その争いから逃れるために水上へと移住せざるを得なかったのである。

 街に名付けられた“ガンビエ”とは「ついに平和を見つけた人々の集落」という意味だ。家族と共に平穏に暮らせる日を待ち焦がれていた彼らの切実さと、ようやく平和を手に入れたという喜びの心情が込められている。

写真③
 次は、奴隷貿易港としての歴史を持つウィダという街だ。19世紀に初のカトリック宣教師が来港し建設したベナン最古のカトリック教会がここ。

 ベナンは宣教師が船でやって来た海側に近い南部でキリスト教が栄え、北部は大陸伝いに入ってきたイスラム教が根強く栄えている。

写真④
 ここは奴隷市場として使われたチャチャ広場。多くの奴隷が鏡、布、ガラスと交換された。値が付けられ、物との交換に使われ、また海外に送られた。現在は既に無くなっているが、当時の広場には「忘却の樹」が生えていたという。木の周りを男は9回、女と子供は7回まわると過去のすべての記憶がなくなると言われていた。家族や故郷の記憶、激しい憤り、運命に逆らおうとする意思など全ての思いを忘れさせるために用いられたそうだ。

 ここから船に乗り、諸外国へと送られた。船の中はすし詰め状態のため体調不良者が多く出て、目的地に着く前に死亡する者も少なくなかったという。
写真⑤

 一度送られてしまうと二度と故郷に帰ってこられないため、通称「帰らずの門」と呼ばれている。門が建設されたのは1995年で、弔いの意が込められている。レリーフには沖に停泊している船に向かって行く様子が描かれている。

写真⑥
 海側からの写真。透き通った青空が痛ましくすら思える。裏側のレリーフには忘却の樹を後にし、海岸へと向かってくる様子が描かれている。

 豊かな大自然、多くの貧困、遅れた経済発展、等々、アフリカに対して様々なイメージがあるが、日本にはなじみの薄い「水上集落ガンビエ」と「奴隷貿易の歴史を持つ街ウィダ」を紹介した。

(ベナン共和国在住)